〜春の日の夕暮〜
トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏やかです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです
吁(ああ)!案山子(かかし)はないか――あるまい
馬嘶く(いななく)か――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か
ポトポトと野の中に伽藍(がらん)は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが
瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自らの 静脈管の中へです
〜春の日の夕暮〜
トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏やかです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです
吁(ああ)!案山子(かかし)はないか――あるまい
馬嘶く(いななく)か――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か
ポトポトと野の中に伽藍(がらん)は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが
瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自らの 静脈管の中へです
〜月〜
今宵月はいよいよ愁(かな)しく、
養父の疑惑に瞳をみはる。
秒刻(とき)銀波を砂漠に流し
老男の耳朶(じだ)は蛍光をともす。
あゝ忘れられた運河の岸堤
胸に残つた戦車の地音
銹びつく鑵の煙草とりいで
月は懶く(ものう)喫つてゐる。
それのめぐりを七人の天女は
趾頭舞踏しつづけてゐるが、
汚辱に浸る月の心に
なんの慰愛もあたへはしない。
遠(をち)にちらばる星と星よ!
おまへの創手を月は待つてる
〜サーカス〜
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処(ここ)での一と殷盛り(ひとさかり)
今夜此処での一と殷盛り
サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒さ(さかさ)に手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆあゆよん
それの近くの白い灯が
安値い(やすい)リボンと息を吐き
観客様はみな鰯
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外(やぐわい)は真ッ闇(くら) 闇の闇(くらのくら)
夜は劫々(こふこふ)と更けまする
落下傘奴のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
〜春の夜〜
燻銀(いぶしぎん)なる窓枠の中になごやかに
一枝の花、桃色の花。
月光うけて失神し
庭の土面(つちも)は附黒子(つけぼくろ)。
あゝこともなしこともなし
樹々よはにかみ立ちまはれ。
このすゞろなる物の音に
希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。
山虔しき(つつしき)木工のみ、
夢の裡なる(うちなる)隊商のその足竝もほのみゆれ。
窓の中にはさはやかの、おぼろかの
砂の色せる絹衣。
かろびき胸のピアノ鳴り
祖先はあらず、親も消ぬ。
埋みし犬の何処(いづく)にか、
蕃紅花色(さふらんいろ)に湧きいづる
春の夜や。
〜朝の歌〜
天井に朱きいろいで
戸の隙を洩れ入る光、
鄙びたる軍楽の憶ひ
手にてなすなにごともなし。
小鳥らのうたはきこえず
空は今日はなだ色らし、
倦んじてじ人のこころを
諌めするなにものもなし。
樹脂の香に朝は悩まし
うしなひしさまざまのゆめ、
森竝は風になるかな
ひろごりてたひらかの空、
土手づたひきえてゆくかな
うつくしきさまざまの夢。
〜臨終〜
秋空は鈍色(にびいろ)にして
黒馬の瞳のひかり
水涸れて落つる百合花
あゝこころうつろなるかな
神もなくしるべもなくて
窓近く婦(をんな)の逝きぬ
白き空盲ひて(めしひて)ありて
白き風冷たくありぬ
窓際に髪を洗へば
その腕の優しくありぬ
朝の日は澪れて(こぼれて)ありぬ
水の音したたりてゐぬ
町々はさやぎてありぬ
子等の声もつれてありぬ
しかはあれこの魂はいかにとなるか?
うすらぎて空となるか?
〜都会の夏の夜〜
月は空にメダルのやうに、
街角に建物はオルガンのやうに、
遊びつかれた男どち唱ひながらに帰ってゆく。
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――
そのくちびる脣(くちびる)はひらききつて
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になつて、
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。
商用のことや祖先のことや
忘れてゐるといふではないが、
都会の夏の夜の更(ふけ)――
死んだ火薬と深くして
眼に外燈の滲みいれば
ただただもうラアラア唱つてゆくのだ。
〜秋の一日〜
こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍との音によつて、
サイレンの棲む海に溺れる。
夏の夜の露店の会話と、
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩のかなたの地平の目の色。
今朝はすべてが領事館旗のもとに従順で、
私は錫と広場と天鼓のほかのなんにも知らない。
軟体動物のしやがれ声にも気をとめないで、
紫の蹲んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。
(水色のプラットホームと躁ぐ少女と嘲笑ふヤンキイはいやだいやだ!)
ぽけっとに手を突込んで
路次を抜け、波止場に出でて
今日の日の魂に会ふ
布切屑(きれくづ)でも探して来よう。
〜黄昏〜
渋つた仄暗い池の面で、
寄り合った蓮の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。
音を立てると私の心が揺れる、
目が薄明るい地平線を逐ふ・・・・・・
黒々と山がのぞきかかるばつかりだ
――失はれたものはかへつて来ない。
なにが悲しいたつてこれほど悲しいことはない
草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
畑の土が石といつしよに私をみつめてゐる。
――竟(つひ)に私は耕やさうと思はない!
ぢいつと茫然黄昏(ぼんやりたそがれ)の中の立つて、
なんだか親父の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです
〜深夜の想ひ〜
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑ぜない女の児の泣き声だ、
鞄屋の女房の夕(ゆふべ)の鼻汁だ。
林の黄昏は
擦れた母親。
虫の飛交ふ梢のあたり、
舐子(おしやぶり)のお道下た(おどけた)踊り。
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は背骨を向ふに運ぶ。
森を控えた草地が
板になる!
黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄する
ヴェールを風に千ゝにされながら。
彼女の肉(しし)は飛び込まねばならぬ、
厳しき(いかしき)のい父なる海に!
崖の上の彼女の上に
精霊が怪しげなる条(すぢ)を描く。
彼女の思ひ出は悲しい書斎の取片附け
彼女は直きに死なねばならぬ。
中原中也作品集
初期詩篇